「設楽原の戦い」で勝頼は鉄砲を軽視していなかった
史記から読む徳川家康㉒
一方、同日の明け方頃には、すでに設楽原で合戦が始まっていた。勝頼は宿将らの反対を押し切って、「御旗・楯無しもご照覧あれ」と武田家に代々伝わる号令をかけ出陣を命令(『甲陽軍鑑』)。織田・徳川の本陣に向かって、一番手・山県昌景、二番手・武田信廉(のぶかど)、三番手・西上野小幡(おばた)党、四番手・武田信豊(のぶとよ)、五番手・馬場信春といった具合に、入れ替わり立ち替わり攻めかけた(『信長公記』)。
ひたすら攻め寄せる武田軍に対し、織田軍は鉄砲隊と足軽で応戦(『信長公記』)。織田・徳川連合軍は数千挺(ちょう)もの鉄砲を用意していたらしい(『当代記』)。
なお、近年の研究では武田軍にも相当数の鉄砲隊が編成されていたことが分かっており、勝頼が鉄砲を軽視していたとする見方は否定されている。ただ織田・徳川連合軍は、弾薬の数において武田軍を圧倒していたようだ。
歴戦の猛将たちが次々に鉄砲に撃たれて戦死する様を見て、勝頼は「あれこれいうまい。馬場美濃と山県三郎兵衛が戦死したからには、合戦の結果はみえた」と退却を決意した(『三河物語』)。
明け方から始まった合戦は、午後2時過ぎ頃に終結(『信長公記』)。武田軍の死者は1000人あまりだった(『多聞院日記』)。
その後、織田・徳川連合軍は長篠城の軍勢と合流して、敗走する武田軍を追撃している(『信長公記』『多聞院日記』)。
同月25日に信長は岐阜城に帰還(『信長公記』)。信長は武田軍の兵で生き残った者はほとんどいないと戦果を分析し、残る敵対勢力は石山本願寺だけである、と述べている(「細川家文書」)。
同年6月2日、家康は兵を駿河(するが/現在の静岡県東半部)に向かわせ(「上杉家文書」)、家臣の大久保忠世(おおくぼただよ)には武田方となっていた依田信守(よだのぶもり)・信蕃(のぶしげ)が守る二俣城(ふたまたじょう/静岡県浜松市)を攻めさせた(『三河物語』『依田記』)。
同月24日、徳川軍は遠江(とおとうみ/現在の静岡県西部)の光明城(こうみょうじょう/静岡県浜松市)を落とした(『三河物語』『浜松御在城記』「孕石文書」)。同年8月24日には諏訪原城(すわはらじょう/静岡県島田市)を落として(『甲陽軍鑑』)、城の名を牧野(まきの)城に改めている(『寛政重修諸家譜』)。
同年12月24日に、ついに二俣城も開城させた(『依田記』『松平記』)ことで家康は、武田家に奪われた三河(現在の愛知県東部)・遠江における徳川領をかなりの部分において奪還した。
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